ところで、矛盾するようでもあるが、ゼットンが息子に挫折をもたらさなかったことを、私はどこかで寂しく思っている。ゼットンへの畏怖をわが子と共有したい、というのもあるけれども、何より「枠の外側」に触れる経験をしてもらいたかったのである。

一面において、成長することは世界のうちに枠組みを拵えることを意味する。「こうなればこうなる」「これはこういうものだ」という約束事を世界のなかに見つけ、それと折り合いをつけていくことである。泣けばミルクがもらえる。ジジババの家に行けばオモチャを買ってもらえる。歯を磨かなければ虫歯になる……。

そういう約束事の積み重ね、すなわち信念の体系とも呼ぶべきものが、世界の枠を形づくる。そしてその枠組みなしに、私たちは世界のなかで生きることができない。

路線バスの運転手が急に気分を変え、おもむろに軽井沢に向かいはじめたら困ってしまうし、何気なくコンビニに入った際、いきなりハイブランドのような接客をされたら気まずくてしかたがない。「こういうものだ」という設定を相互に守ることによって、私たちは思考に負荷をかけずに生きられるようになる。「こういうものだ」がない世界はさながら先生のいない保育園であり、生きることを繰り延べていくためのカロリーが高すぎるのである。

ともあれ、今回のウルトラマン然り、ヒーロー作品において共有されている約束事は、「いわれなき苦しみには救済がある」「悪事を働く者は身を滅ぼす」等々である。こうした信念を再認することは、私たちに安心と快楽をもたらす。あぁ、これでいいのだ。このまま、これを信じていれば間違いない。引き続き、私たちはこの世界で正しく生きていられる……。

私はわが子に、この安楽が打ち砕かれる経験を、ぜひともしてもらいたいと思っている。信念の体系が揺らぐとき、私たちははじめて「他者」と出会えるからである。

哲学の言葉で「他者」というとき、これは必ずしも人を指すのではなく、自分自身が身を置く世界の外部にいるもの全般を指している。とくにフランス現代思想の潮流においては、「これでいいのだ」と固定化していく「私」の存在に、異物を混入させてくる何物か、というニュアンスが強くなる。

この意味において、ゼットンはすぐれて「他者」である。「ヒーローが悪を打ち負かす」というお約束を打ち破ることによって、子どもたちの無邪気な正義心にとっての異物であり続けてきたのだから。しかもこのゼットンの勝利は、単純に一つの「お約束」を無効化するだけではない。「約束は守られるものだ」という、個々の約束の根拠となっている前提――いわばメタルールにもヒビを入れるのである。

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