私が知らず私であってしまう"どうしようもなさ"の核心をなす「エートス」

エートスというギリシャ語は、一般に習慣や習俗といった日本語に訳される。英語のethics、すなわち「倫理」の語源となったこの言葉を、しかし「習慣」という反復性に重きを置いた言葉に還元してしまうと、どうもその本質は取り逃されていくようだ。エートスとは、わが身に染みついてしまった心の仕草のようなものであって、言いかえれば私が知らず私であってしまう、そのようなどうしようもなさの核心をなしているものなのである。

「エートスは人間にとってのダイモーンである」とは、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの格言であり、そのまま日本語にすれば「習慣は人間にとっての精霊である」といった意味になる。しかしこれでは、なにやら神秘的な含みはあるものの、具体的な内実は見えてこない。かといって、それらしく意訳したとしても、「習慣がその人の魂を形づくる」というくらいで、まぁ、それはそうだろうな、といった印象に留まるだろう。

この格言の解釈を通じて、エートスの本質をみごとに取り出してみせるのがハイデガーである。独特の語彙ゆえに趣旨が掴みにくい文章だが、ともあれ引用してみよう。

この語(エートス)は、そのうちに人間が住んでいる開けた圏域のことを名指している。人間の居場所という開けた局面は、人間の本質へとふりかかってきてそのように来着しながら人間の近さのうちにとどまるものを、出現させるのである。人間の居場所は、人間がみずからの本質においてそこへ帰属しているゆえんのものの来着を含み、保持している。そうしたものが、ヘラクレイトスの語によれば、ダイモーン、すなわち、神というものなのである。
(丸括弧内筆者)
――マルティン・ハイデガー著、渡邊二郎訳(1997)、『「ヒューマニズム」について』筑摩書房、118頁

さしあたり言われていることは二つである。すなわち①エートスとは、そこにその人の本質が留まっているような場所であって、②その居場所は、神的なかたちでその人に何らかの作用を及ぼしてくる、というわけだ。

まだフワッとしているが、この意味をカッチリ把握するには、ハイデガーが人間を「場」として捉えていることだけを理解しておけばいい。私という存在は、つねに「何かミクロな出来事が起きつづけている現場」であって、デカルトの言うような「考える私」(近代的自我)が行動のベースにあるわけではない。多くの場合、「私」という意識が介在する以前の段階で、私たちはさまざまな感情に動かされつつ、明確な目的意識を抱いたり、あるいは漠然とした心のベクトルに従ったりしながら行動を起こしている。そのようなメカニズムが作動している場が、私なのである。

たとえば朝起きて顔を洗う際、いちいち「私は出かける準備をするために顔を洗わなければならない」などと意識ながら行動に移る人はそういないだろう。目覚ましの音に体が「反応」し、あぁ、だるいなぁ、と憂うつな「気分」のなかで体を起こし、仕事に行かなきゃなぁ、などと習慣的な「志向」によって洗面所に向かうわけである。こういう、「考える」以前の反応や気分、志向など、ミクロな出来事がつねに生じる場として、ハイデガーは人間を捉えている。

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