[ブックレビュー]重松清『ナイフ』

重松清の名前は、中学受験、高校受験を通過した人なら誰でも名前を聞いたことがあるだろう。温かい親子関係、かつて子どもだった大人たちのノスタルジーを喚起する作品を多く発表している現代の人気作家の一人だ。

こういった重松作品の中で異色を放つのが
この『ナイフ』という作品。

全部で5編の作品で構成される短編集なのだが、いずれも「いじめ」をテーマとしている。しかもそこで描かれているのは冷たい「現実」。
「いじめ」をテーマとする作品は他にもたくさんあるが、その多くがいじめる側の軽い気持ちや受ける側の心の傷、あるいはいじめっ子のリーダー格の醜悪な思いを描くものである。つまり「気持ち」に焦点が当たっている。しかしこの作品ではいじめを「乾いた現実」として表現している。そこにはもちろんリアルがあるわけだが、この「乾いた現実」が浮かび上がらせるもの、それが「諦観」である。

表題作「ナイフ」では、息子のいじめを知った父親が、息子を守るために小さな折り畳みナイフを手にする。そこには弱い父親がふとしたきっかけで息子を守ろうとする強さが描かれている。ここでは息子を思う父親の気持ちの変化が描かれているのだが、むしろ魅力的なのはそれ以前の父親の弱さの描写。重松の得意とする「人間臭さ」というモティーフが、他の重松作品にはない「諦観」をもつ存在として描かれる。

冒頭を飾る「ワニとハブとひょうたん池で」。私はこの作品で重松清という作家にはじめて惹かれた。陰湿ないじめを受けている女子の家の近くにある池。ここはワニが住んでいるという噂の池。その縁に座り込み、彼女は自分が受けているいじめを客観的に受け止め、池に向かって話し続ける。

もちろん実際のいじめではそんなふうに客観的に話すことはできないだろうけれども、そこになぜだか乾いたリアルが浮かび上がってくる。それはいじめの描写が凄惨で真に迫ったものである分、なおさらリアルなものとして読者に訴えかける。「人間って、そういう生き物でしょ?」と。

おそらく重松清の作品のもつ温かさは、この短編集で描かれるようなリアルで乾いた人間観に基づいているのだろう。重松の描く「人間臭さ」は、けっしてハートウォーミングな存在としての人間の在り様ではない。人間はそもそも他者と分かり合うことなどできない。しかしそれを乗り越えていこうとする意志。これが重松の描く「人間臭さ」なのだろう。

しかし『ナイフ』では「乗り越えられない現実」として他者が存在すること、そしてそれは残酷なほど埋めようのない亀裂として存在しうることが描かれる。おそらくこの「諦観」こそが、重松清という作家に通底する人間観なのではないだろうか。

仕事柄重松作品には多々出会い、興味をもって読んだりもする。しかしこの『ナイフ』ほど残酷なものはないだろう。読むのがつらく、何度も本を置きかけた。それでもここであえて紹介するのは、人間が分かり合うことの前提に他者との決定的な差異があるのだ、という厳然たる事実を受け入れること――これが「諦観」である――を、生々しく感じてほしいからだ。

……とこんな言い方をすると手に取ってもらえないかもしれないので最後につけ加えておくと「ビター・スィート・ホーム」はよい話なので安心してください。「エビスくん」もラストがとても素晴らしい作品です。


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