ところで、このように空洞化した義務感に駆られたとき、子育てはたんなる形式を、すなわち学歴を求める。学歴社会という言葉はすでに高度経済成長期にも見られるが、経済停滞がつづく現状にあっては、学歴の意義も当然変わってくる。それは当時のような「きらびやかな将来へのパスポート」ではありえず、むしろ「安定した暮らし」を指向するものだ。学歴に含まれていたステータス性は取り除かれ、もっぱら「資本を継続的に獲得する地盤」としての安定性のみが期待されているように思われる。

ここでもう一つ、『海辺の光景』の頃から現在に至るまでの家庭環境の変化として、共働き世帯の増加という点を挙げないわけにはいかない。つまり当時と違って、母は一人の「労働者」になったのだ。

「拡大再生産」を自明の前提とする経済成長期にあって、労働する父は子によって乗り越えられるべきものであり、母は家事・育児をつうじてその「家庭内での拡大再生産」を支える役割を担った。この拡大再生産のモデルは、江藤における「子が自らのもとを離れていく不安」の背景をなすものでもあるだろう。

ところが現在、この国の成長に期待がもてなくなった状況において、父母が身を置いている労働モデルを超出することは、子にとって自明の目標ではなくなっている。「乗り越えるべき父」という希望に満ちた像のかわりに、子としての私たちが獲得したのは、「資本によって媒介された存在としての父母」という観念である。すなわち、愛情や血縁にもとづくユニットとして想定されていた家族という単位は、資本に媒介されることで、可能的労働基体=人材の集合としての性質を帯びることになる。象徴的なのが「スペック」や「親ガチャ」といった言葉である。父のスペックと、母のスペックを鑑みれば、おのずと自身のスペックも想像できる――「低スペ」の父母のもとに生まれることは、(多くの場合「自虐ネタ」としてではあるものの)「親ガチャ失敗」として捉えられる。

人間と人材との違いはどこにあるか。人材においては、もっぱら彼が「潜在的に産出しうる価値」に焦点が当てられる。「像に溺れる」の主人公も、自身の価値をもっとも客観的なしかたで(すなわち「スペック」的に)示す「テストの点数」に拠り所を求めている。これはすでに、人材として自身を規定した人間の観点である。

人材としての価値を可能なかぎり高め、人生を算定可能なものにすること――これは資本主義社会が要請する個人の生き方であるばかりか、江藤の指摘した母性のアンビバレンスを解消する生き方でもある。母にとっての「想定外」を起こさず庇護下に留まり、同時に(世間的な意味での)一人前の人間として歩んでいく。はからずも、「像に溺れる」の主人公にとって、資本主義と母性とは結託して閉鎖した環境を作り出しているのである。

この閉鎖環境に対し、主人公はさまざまな脱出の活路を見出していながら、物語の最後には結局この環境のうちで生きていくことを選ぶ。与えられた環境を打破する抵抗力を「人間の尊厳」として捉えつつも、これを捨てて所与の世界に生きていくよりほかはない、と諦念めいた決断を下す。彼の選択に主体性を見出すとすれば、彼自身が将来にわたって「揺れつづけること」を引き受けようとしている点である。それは終わりなき日常を自覚的に生きることであり、彼はこれから常に「どこにもいけない」感覚に打ちひしがれながら、資本と母によって規定される自己に負い目を感じつづけるだろう。そしてその負い目だけが、彼の尊厳をかろうじて保証するもの、すなわち良心のかけらとも言うべきものなのである。

もしかすると彼はこれから、再び道に迷って新興宗教に没頭していくかもしれないし、あるいは結婚や育児をつうじて閉じた環境を打破する機会に恵まれるかもしれない。いずれにせよ、彼がこれから主体性を回復し、成熟していくためには、自身がこれまで切り捨ててきたものを見つめつづけなければならないだろう。江藤淳は私たちの成熟には「喪失」の契機が不可欠であり、この契機において「喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけること」が必要であるという。それは現状肯定とは真逆の態度である。喪失をつうじて引き起こされる自身の変化のさなかで、すなわち自己が以前とは異なるかたちへと変化していく危機にあって、失われたものへの負い目をひとつの転換点としながら、いつのまにか負債を背負い込んでいる自分を、自己自身として受け入れることである。そしてこれよりほかに、私たちがこの閉じた現在を抜け出す糸口はないのだ。


[連載小説]像に溺れる

第1
第2
第3
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
第4
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—2
第5
最終
  • #110 像に溺れる
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